おうちで式場展

「式場隆三郎:脳室反射鏡」展をオンラインで楽しんでいただくコーナーです。
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【続・無観客美術館】

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【ダイジェスト】
式場隆三郎:脳室反射鏡

都築響一がお送りする有料メールマガジン『ROADSIDERS' weekly』より特別掲載!

2020年4月22日 Vol.401

「怪人シキバ二十面相」

ずいぶん前から机の脇に山下清の写真を貼って、ときどき眺めている。放浪時代の山下清は道路ではなく線路を歩いて次の町に向かうのが常だったそうで、それは線路を歩いていれば道に迷わないし、駅舎で寝ることもできるからだった。

山下清は知名度に欠けたのではなく、知名度がありすぎて過小評価されてきたアーティストだと思うが、多くのひとがイメージする山下清は「裸の大将」の芦屋雁之助なのであって、実物の山下清は汚れなきオトナコドモどころか、障害者施設の八幡学園に暮らすようになった子ども時代からかなりのワルで、先生方に手を焼かせていた。貼り絵に出会ってからも授業時間が終わったらさっさと止めるし、放浪のときも毎日朝昼晩、茶碗を2つ持って家々に食事を恵んでもらいに回り、それは「茶碗がひとつだとゴハンだけしかもらえないが、2つだとオカズももらえる」という知惠だったり・・・・・・反省とか常識とか倫理とか、そういうものにまったく頓着しなかった半端者=アウトサイダーだったことを日記から知って、すごくうれしくなった。

あらゆる正しきホーボーがそうだったように、山下清は旅行家だったのでもなんでもない。ただ、移動したかったから移動しただけだ。どこにも属せなかったから、いつでも動いていなくてはならなかっただけだ。

スーツにベレー帽姿の彼が、線路の上に立って遠くを眺めている後ろ姿の写真は、聞くところによると後年、わざわざ清を線路に立たせて撮影されたものらしいが、そんなことはどうでもいい。この写真を見るたびに、僕は清から「逃げろ!」と言われているような気になる。押しつけられる理屈から、理解できないシステムから、こころに刺さるすべての迷惑な善意から。

休館中(涙)の美術館を眺める・・・・・・

前置きが長くなってしまったが、そういうクセモノの山下清をプロデュースし、世に知らしめた張本人が式場隆三郎(しきば・りゅうざぶろう)という、なんとも多芸多才で複雑怪奇な人物だった。いま広島市現代美術館では『式場隆三郎:脳室反射鏡』という展覧会が開催中・・・・・・のはずだったが、新型コロナウィルスのせいで残念ながらスタートできないまま臨時休館中。担当学芸員の無念がこもる動画「無観客美術館」がアップされていて涙を誘う。もともと式場隆三郎という人物にはすごく興味があって、この展覧会もメルマガで紹介しようと思っていたところなので、今回は5月17日の会期末までに休館が解けることを願いつつ、誌上展覧会をお送りしたい。

「おうちで式場展」https://www.hiroshima-moca.jp/ryuzaburo_shikiba/special/

続・無観客美術館

式場隆三郎(1898~1965)は現在の新潟県五泉市に生まれ、新潟医学専門学校(現・新潟大学医学部)に学んだ精神科医であった。医業のかたわら、民藝運動、ゴッホ論、精神病理学入門、性教育書に至る驚くべき健筆をふるい、生涯の著書は約200冊に及ぶ。ゴッホ複製画展や山下清展などの事業も手がけ、広範な大衆の関心と趣味を先導した。式場の多分野にわたる啓蒙的な活動は、私たちの芸術観の形成(例えば「天才/狂気」「制作/宿命」「芸術/生活」といった観念連合)にあずかるものであった。幅広く時代に導かれ、幅広く時代を導いた式場は、近現代日本の文化史に重要な文脈を与えたのである。可視(科学)と不可視(芸術)の両極を往還した特異な個性を評する文字として、副題を式場の著書(1939年)から採って「脳室反射鏡」とした。その多彩な足跡を、約200点の作品・資料を通じてたどる。
(展覧会サイトより)

式場隆三郎(撮影:宮武東洋)

「多彩な足跡」という表現がぴったりの式場隆三郎は、千葉県市川市にある式場病院を1936(昭和11)年に開いた創設者であり、同年に八幡学園の顧問にとなったことで山下清と出会い、「裸の大将」を世に知らしめるプロデューサーとなって、日本各地やヨーロッパ旅行にも同行したほかに・・・・・・

•ファン・ゴッホ研究家として50冊以上のゴッホ関連書籍を著し、欧米旅行で買い集めた複製画によるゴッホ展を日本各地で開催、多くの日本人がゴッホを知るきっかけを作った。

ゴッホ展会場で作品解説をする式場隆三郎

1951~52年にかけて全4巻を翻訳刊行した「ゴッホの手紙」(創芸社近代文庫)

•マルキ・ド・サドの日本における最初の紹介者として、1937年にまず伝記を翻訳(すぐ発禁)、その後も作品の翻訳や解説書を著した。ロートレックやビアズリーなども著作を通して広く紹介した。

•1952年に松本市で初個展を開いた草間彌生を知って、東京での展覧会デビューに尽力した。

•医学学校に在籍していた大正時代にのめり込んだ『白樺』から民芸運動にコミットするようになり、機関誌『月刊民藝』でも編集の中心として活動。バーナード・リーチに関する大部の著作も(本人に会わないまま)出版、その後来日したリーチがいきなり贈呈されてびっくりした。

『バーナード・リーチ』芹澤銈介による型絵染布装(1934年、建設社)

式場邸応接間(濱田庄司他設計、1939年竣工)

•「こころの癒しには環境と文化の歓びが大切」という信念から、病院内に広大なバラ園を造成。「市川バラ会」の結成やローズ・カーニバル開催を推進し、それまで珍重されていたバラの普及に努めた。

•製薬会社から依頼を受け、謎の頭脳薬品「シキバ・ブレノン」を製造販売した。

「頭脳エネルギーの原動力」! シキバブレノン

•終戦の翌年である1946年に、首都圏の日刊紙「東京タイムズ」を創刊。同時期に「ロマンス社」を設立し、カストリ雑誌「ロマンス」などを発行。のちも『人妻の教養』『結婚の饗宴』『独身者の性生活』といった軟派系著作の数々で人気を得る。しかも同じ1946年から日本ハンドボール協会会長を20年近くつとめ、競技の発展に尽力した。

•戦後、敵国財産としてフランスに接収されていた松方コレクションの返還運動に尽力、返還されたコレクションが元になって国立西洋美術館が開館した。

•東京深川の奇怪な住宅建築「二笑亭」を、『二笑亭奇譚』(1938年刊)をはじめとする著書で世に紹介した。

•伊豆大室高原に「ホテル・オームロ」を開業した。オームロ(現・桜美林大学の関連施設)はシャボテン公園の隣、「ウルトラマン」のロケ地になったこともあり。

二笑亭の式場隆三郎(図版出典『二笑亭奇譚』昭森社、1939)

まだまだ挙げればキリがないと思うけど・・・・・・精神科医であり病院経営者であり、ゴッホもサドも山下清も最初の紹介者であり、民芸からカストリ雑誌、セクシー・エッセイまで書きまくる人気文筆家であり、珍スポットの開拓者であり。とびきりのハイアートから、とびきりのロウアートまで縦横無尽に飛び回った生涯は・・・・・・とても比べものにはならないレベルではあるものの他人とは思えず(いまだ夏場にランニングシャツ着てると山下清とか言われるし涙)。すごいなあと仰ぎ見つつ、個人的にはどこか親近感を抱いてしまう怪人物、それが僕にとっての式場隆三郎なのだった。

プロデューサーといえば聞こえがいいが、黒幕っぽくも、山師っぽくもあり。経歴を並べると活動の多彩に目を奪われるが、もしかしたら本人にとっては気になったから、気に入ったからやってみた、というだけのことだったのかもしれず。こころのおもむくままに手を出し、サポートし、つくったり壊したりしてきたことは、他人から見たらバラバラかもしれないけれど、本人はちゃんと一本スジが通ってるつもりだったろうと思うと、妙にうれしくなる。すごく人生を楽しんだひとだったんだろうなあと尊敬したくなる。

ちなみに式場隆三郎の甥が、日本カーレース界最初期のスターのひとりだった式場壮吉。第1回日本グランプリ(鈴鹿)で優勝し、翌年第2回ではポルシェ904で、生沢徹のプリンス・スカイラインと伝説のデッドヒートを演じた伝説のレーサーだ。自分ではいつもノロノロ運転のくせに、この当時のレーサーたちの話が僕は大好きで、同じ市川出身の浮谷東次郞の『がむしゃら1500キロ』や『俺様の宝石さ』を熟読していたころもあったので、よけいに親近感も湧く。しかも式場壮吉の奥さん、つまり隆三郎の姪っ子にあたるのが欧陽菲菲だし!

ゴッホ半纏!

式場隆三郎が亡くなったのは1965年、67歳だった。当時の日本人の平均寿命が67歳だったそうで、そのとき地方の展覧会場にいた山下清が「先生は67で死んだな、ちょうどいいな」というのが彼なりの式場先生への送別の言葉だったそう・・・・・・どこまでもシブいおひとです。

式場隆三郎 脳室反射鏡:
新型コロナウィルス感染拡大防止のため臨時休館中
@広島市現代美術館
https://www.hiroshima-moca.jp/

[脳室反射鏡 誌上展覧会]

医学校の白樺青年岸田劉生〈人類の意志〉1914頃

[父・叔父・その友]

式場隆三郎には、父と叔父の影響が濃い。父・式場幸平は長年にわたって教員を務めた。その著書『静亭旅日記』は、息子隆三郎が編集にあたったもので、還暦を記念した伊勢参りの記録である。ゆく先々で旧友や教え子を尋ね、骨董品の買い物も楽しんだところは、この父にして、と思わせる。その弟が式場益平で、この人も教員であり、能筆の歌人でもあった。隆三郎から号をねだられ、自らの号「摩星楼」と同様に名をもじって「榴散楼」と名付けたのは、この叔父である。會津八一は旧制新潟中学(現・県立新潟高校)で益平の2年先輩、親しい文学仲間であった。
(展示解説より、以下同)

[ゴッホ研究]

新潟医学専門学校で式場隆三郎を指導した中村隆治教授の講義は、患者自身に自らの症状や入院生活について語らせる、という型破りであり、脳外科の中田瑞穂(文化功労者、會津八一と親交)が主宰する句会の世話人も務めるなど文人趣味もあった。式場がゴッホに関心を寄せたのは『白樺』経由のことであったが、それは精神医学に結び付いた。中村教授は式場の熱意に理解を示し、精神病学教室の予算でのゴッホ関連文献の収集を許したという。式場隆三郎の最初期の著書である『ファン・ホッホの生涯と精神病』(1932年)は、二人の恩師として柳宗悦と中村隆治に捧げられている。

『ファン・ホッホの生涯と精神病』

[敗戦国日本]

医業のかたわら、戦時中も旺盛な執筆・出版を続けた式場隆三郎は、戦後ますます活動の幅を広げる。長崎で被爆した医師・永井隆からの手紙で、手記出版への協力を求められた。これを即決した式場は、自身らが創立し、弟・俊三が専務を務める日比谷出版社に企画を示す。GHQが示した出版許可条件は、『長崎の鐘』の後半に、日本陸軍の暴虐ぶりを記した『マニラの悲劇』を収録することだった。式場が敗戦から程なく出した小冊子『地獄島 兵士の敗戦記録』や『俘虜の心理』には、いわゆる「戦記もの」への意欲と戦略が見てとれる。今も読み継がれる永井隆の著作は、初出版当時そのような流れのなかにあったとも言える。

敗戦国日本(永井隆)

[「炎の人」の誕生]

昭和26年(1951)9月、式場隆三郎は銀座松坂屋でゴッホ複製画展を開く。式場が制作や広報に協力した劇団民藝『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』のプレ・イベントであった。その盛況に意を強くした式場は、翌年5月から欧米を巡歴、更に複製画や資料を集め、昭和28年(1953)5月には日本橋丸善でゴッホ生誕100年記念展を開催、以後も全国に複製画展を巡回させた。それらは複製であっても、多くの日本人が初めて見た「ゴッホ」であり、「炎の人」という悲劇的・英雄的な画家像を形成したものである。彼の青春を育んだ『白樺』の精神主義・理想主義は、大衆娯楽としての美術鑑賞という、言わば正統な帰着点を得たのであった。

1951年、劇団民藝公演ゴッホ劇「炎の人」、三好十郎作、式場は製作顧問をつとめた

公演にあわせて企画された「ヴァン・ゴッホ展」

今治市商工会館での展示風景

《ラングロア橋(アルルの跳ね橋)》複製、式場隆三郎旧蔵

各地でのゴッホ展ポスター、案内ハガキ

今治での展覧会に押し寄せた人々

式場隆三郎案、芹沢銈介作《ヴァン・ゴッホ遍歴図》
(『ヴァン・ゴッホの生涯(フィンセントよりテオへの手紙)』1943年より)

[「裸の大将」とともに]

大正11年(1922)3月10日、山下清は浅草に生まれた。昭和9年(1934)5月、12歳の時から八幡学園に預けられ、久保寺保久園長による子供たちの人間性を育む教育方針の中で、貼り絵の楽しみを知る。ゴッホ複製画展で成功を収めた式場隆三郎は、昭和30年(1955)に『山下清画集』(新潮社)を刊行、翌年3月に東京大丸で開いた山下清展には皇族方も来場し、80万人が見たとも言われる。以後、式場は山下清のプロデュースに尽力し、小林桂樹の主演映画『裸の大将』(1958)を監修、昭和36年(1961)には清のヨーロッパ旅行を企画・同行した。清が「日本のゴッホ」と呼ばれる時、その「ゴッホ」は式場の「作品」であったとも言える。戦後を代表する「国民画家」の一人である。

1956年、東京大丸で開催された「放浪の特異画家 山下清作品展」
長期の放浪後、1954年に鹿児島で「発見」され、開かれた戦後初めての展覧会が大反響を呼んだ。

[民藝と生活]

「民藝」という新語が生まれたのは大正14年(1925)12月、柳宗悦が木喰仏の調査のために河井寛次郎、濱田庄司とともに津へ向かう車中でのことであった。木喰仏を探す旅は、各地の民藝を探す旅へと結びついたのである。それから約10数年を経た戦時下のこと、式場隆三郎は著書『民藝と生活』(1943)に、「ことに大東亜戦の開始以来」民藝は当初の意味である「民衆的工芸から発展して民族的工芸、国民的工芸となった」と言っている。宗悦や濱田らが意匠を手掛けた邸宅に暮らした式場は、自らが編集の中心となった機関誌『月刊民藝』などのメディアを通じ、民藝運動を戦時下の時代と社会に深くコミットさせた。民藝と切り離せない「生活」(ライフスタイル)は、国家とその難局に地続きなのであった。

河井寛次郎「三色打薬扁壷」

[書物愛]

式場隆三郎は、二重の意味で書物愛の人であった。第一に、文字の器としての書物を愛する人として。ゴッホ、バーナード・リーチ、そして白樺派。これらの名が見える文献は、何もかも集めようという努力を惜しまなかったのである。彼の書誌編纂への情熱には、柳宗悦や壽岳文章も一目を置いていた。第二に、モノとしての書物にも彼は惑溺した。式場の著作の多くには、並装本とは別に、部数限定の特装本・自家本が制作されている。最初期の著書である『ファン・ホッホの生涯と精神病』(1932)以来、ともに仕事をすることが多かった芹澤銈介はじめ、民藝の作家たちは式場の本に美しい装いを与えた。「本造りは、ある意味で、式場君の宗教であったのかも知れない」と壽岳は書いている。

点字訳「ヴァン・ゴッホの生涯と芸術」

「脳室反射鏡」棟方志功装幀、高見澤木版社刊(1939年)

[ゴッホ工芸]

昭和30年(1955)、大規模なゴッホ展がアントワープで開催される機会に、式場隆三郎はベルギーからの依頼を受ける。日本のゴッホ文献を集め、またゴッホ作品を文様としてあしらった工芸品を制作させて、これらを展覧会に出品することであった。その前年、式場は既に「ゴッホ浴衣」を手掛けていた。これに意欲を抱いた彼は、各地の工芸家たちに型絵染・漆芸・革工芸・磁器など数十点を制作させる。「日本の工芸とゴッホの作品の綜合」を目指したのだが、それは式場個人にとってはゴッホの研究・普及と、民藝運動という二つの情熱の総合でもあった。そして、広く親しまれた「炎の画家」の作品をデザインに応用することで、日本工芸をさらに大衆化・国際化させようという、言わば「民藝」の組み直しであったかもしれない。

ゴッホ浴衣!

ゴッホ半纏

「ゴッホ・ワンピース」1954年
式場隆三郎図案、伊藤萬株式会社(生地提供)

「ゴッホ・ワンピース」1954年
式場隆三郎図案、伊藤萬株式会社(生地提供)

ゴッホ掛け軸

[二笑亭綺譚]

早稲田大学講師・戸川行男が、八幡学園の子供たちの展覧会で「特異児童作品」の論客として知られつつあった時期、式場隆三郎は東京深川の奇怪な住宅建築《二笑亭》に取り組んでいた。彼の代表作となる『二笑亭奇譚』は、はじめ『中央公論』昭和12年(1937)11月号、12月号に掲載され、翌年2月に単行本化される。この初版本の後半には「狂人の絵」という章も置かれたが、後の版では割愛された。この時期、式場が自らの邸宅「榴散楼」(1939年3月竣工)を建てていたことは重要であったように思われる。「奇を競う心理と、個性を強調しようとする意欲」を二笑亭に限らないとした言葉は、自身の趣味と生活への反省であり、あるいは民藝批判であったかもしれないのだ。

「二笑亭綺譚」芹澤銈介装幀、昭森社(1939年、特製A版)

出版を告げる案内ハガキ

木村荘八『二笑亭綺譚』挿絵
「奇妙な裏木戸」1949年頃

木村荘八『二笑亭綺譚』挿絵
「ホールの三面窓」1949年頃

木村荘八『二笑亭綺譚』挿絵
「和洋合体風呂」和洋の浴槽を並べた奇妙な風呂 1949年頃

木村荘八『二笑亭綺譚』挿絵 1949年頃
「九畳の間から土蔵の二階へ通ずる入口」

木村荘八『二笑亭綺譚』挿絵
「桧板の節にはめられた硝子窓」1949年頃

木村荘八『二笑亭綺譚』挿絵 1949年頃

木村荘八『二笑亭綺譚』挿絵
「長男洋行船中の発狂の図」1949年頃

[式場隆三郎の晩年]

式場隆三郎は、とにかく人を集めることを好んだ人で、様々な会に関わり、主催している。医家芸術クラブ(1954年2月創立)でも代表を務めた。芸術を愛する医師たちの親睦団体であり、その作品展に自作の油彩画をしばしば出品している。残された一点には、一脚の椅子が描かれている。昭和39年(1964)5月、濱田庄司はスペインやメキシコで集めた家具5000点の展示即売会を日本橋三越で開く。アンダルシアの村グァディスの椅子は良く売れ、やがて黒田辰秋らが模作して「ゴッホの椅子」と呼ばれた。これを式場も身近に置いて愛した。この椅子のイメージは、式場の最初期の著作である『ファン・ホッホの生涯と精神病』の外箱にも、芹澤銈介によって描かれていた。式場の逝去は、昭和40年(1965)11月21日であった。

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