作家紹介

略歴

1937年 横浜の本牧町に生まれる
1941年 大分へ転居。吉村益信、磯崎新と知り合う
1952年 名古屋へ転居、旭丘高校美術科へ転校。同級生に荒川修作がいた
1955年 武蔵野美術学校油絵科進学
1958年 第10回読売アンデパンダン展に初出品
1960年 「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」結成に参加
1963年 高松次郎、中西夏之とともに「ハイレッド・センター」を結成
第15回読売アンデパンダン展に《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》出品。
1965年 《模型千円札》などの作品が通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴される
1967年 東京地裁一審にて「懲役3年、執行猶予1年、原銅版没収」の判決がくだされる
1970年 最高裁で有罪が確定。美学校講師となる
『朝日ジャーナル』誌上で「櫻画報」を翌年にかけて連載
1972年 「超芸術トマソン」のはじまりである《四谷階段》を発見
1981年 小説『父が消えた』で第84回芥川賞受賞
1986年 「路上観察学会」設立
1992年 「ライカ同盟」結成
1998年 エッセイ『老人力』がベストセラーとなり、同年の流行語大賞トップテンに
2014年 死去

赤瀬川原平提供:松田哲夫

「赤瀬川原平」とは何者か ―関係者の証言

※すべて「赤瀬川原平の芸術原論展 1960年代から現在まで」展覧会カタログ掲載テキストより抜粋

山下裕二(美術史家・明治学院大学教授)

「赤瀬川原平」とは何者か。ご本人は、肩書きをつけるときには一応、「画家、作家」と表記されているようだが、それがすべてを表しているとはとても思えない。画家、前衛芸術家、イラストレーター、マンガ家、小説家、エッセイスト、脚本家、宮武外骨研究家、カメラ研究家、路上観察学会員、日本美術応援団団員、はては千円札裁判被告などなど…「赤瀬川原平」のある側面を表す言葉は、山ほどある。 かつて私は、氏の著書『ライカ同盟』(ちくま文庫1999年)の解説の中で、…「赤瀬川さんは、よく視る人、だと思う。視る、という行為そのものが、職業になっている、稀有な人だと思う。(中略)この人はほんとうにいろんな光り方をしている。光源がさまざまなところにあるから、その光り方の全貌を把握している人は、そうはいないと思う。…」…

―「「赤瀬川原平」とは何者か」

篠原有司男(アーティスト)

…新宿百人町の吉村アトリエ、通称ホワイトハウス(ただ、外側の壁が白いからこう呼ばれた)。内側はピンクの壁紙。グループ展の案内状制作は各自、勝手な文句を印刷したが、「ネオ・ダダイストの資格①、ネオ・ダダイストは教養がない!」、これは赤瀬川の言葉。…

―「ホワイトハウスのゴンボー汁」

谷川晃一(美術家)

…ところで赤瀬川はよく「普通は何々だけれど----」というように話しを切り出す。例えば黒い電球を描いて「普通、電球のスイッチを入れるとパッと明るくなるけど、真っ暗になる電球もある」といって笑うのである。[略]おそらく家具の梱包作品も模型千円札もトマソンも、「普通」すなわちレディメイド感覚を超越した発想から始まっているのだ。…

―「レディメイドの配色」

足立正生(映画監督)

…芸術表現とは社会的な存在を脅かすものであり、それを実行する自らは「思想的な変質者」=世界の変革者だという、壮大な問題提起をし続ける原平さんに誘導されて、常に破壊から変革への行動契機を探し求めるようになった。今でも、その原平さんの植え付けた主張は、私たちの中に生き続けているから、やはり、原平さんはヤバい。

―「原平さんに挑発され続けた!」

杉本昌純(千円札裁判弁護人)

…1966年8月10日、第1回公判。検察官の起訴状朗読等所定の手続きの後、被告人、特別弁護人、弁護人の各意見陳述。原平さんのそれは見事なものであった。発想の豊かさ、文章の巧みさは定評があるが、いまこの意見書を再読して、分析力、思考力にも改めて驚く。…

―「原平さんと千円札裁判」

林静一(画家)

…このだらだらとした優柔不断な生き方が、長い人生を歩むには一番で、その生き方を実践したのが原平さんその人ではないかと思っている。…

―「原平さんとの思い出」

松田哲夫(編集者)

赤瀬川原平の文章は、その表現形態によって、「鋭角期」「脱力期」「自在期」の三つの時期に分けられる。文章を書き始めたころの「あいまいな海」(1963)は、詩に近いものだった。硬質でとんがっているが、身体性や皮膚感覚が突出していた。…

―「赤瀬川原平文章史序説」

南伸坊(イラストレーター)

赤瀬川さんと一緒にいると楽しい。基本がいつも上機嫌だ。といって、無理をして明るくふるまったり、サービス精神で回りを楽しませているというのも違う。赤瀬川さんがまず楽しいのだ。そしてそれがそばにいる人をまきこんでいく。…

―「「笑い」の芸術」

荒俣宏(博物学者)

…私が赤瀬川さんの謦咳(けいがい)に接して得た最も大切な教えは、知識や楽しみや道楽はなるべく周囲にもばら撒いて感染させてしまえ、という戦略である。「知の吝嗇(けち)」にならない。それがいずれ人を寄らしめる。宣伝はいらない。大道芸をいきなり演じてしまえばよろしい。…

―「赤瀬川原平さんちで風水を看た頃」

藤森照信(建築家)

付き合い始めてからずっと、絵を描き小説を書く人だ、と思っていた。どうもそれだけではないらしいと知ったのは、赤瀬川さんの自邸であるニラハウスの設計を頼まれ、その工事をやっている時だった。[略]赤瀬川さんが職人の目の技の持ち主であることはすでに知っていたが、手も職人であることをこの時知った。職人の目と手を持つ画家、作家ということか。本人風に言うなら、画家、作家の皮をかぶった職人。

―「皮をかぶった」

坪内祐三(評論家)

…赤瀬川原平は天才であるが、実は媒体に応じて原稿を書き分ける。例えば、『ゼロ発信』はきわめてアヴァンギャルドな新聞小説だったが、そのアヴァンギャルドも、赤瀬川原平が、そも新聞小説とは何であるか、を考えた上でのアヴァンギャルドだった。…

―「赤瀬川原平の偶然力」

中村政人(アーティスト)

…オルタナティブ=新しいものを発見・創造しようとする純粋な姿勢といえ、既成の価値観をもう一つ別の考え方で読み取り直し新たな選択肢を生み出すことである。それはまさしく赤瀬川さんの哲学そのものと言える。…

―「別のセンサー」

山口晃(画家)

…「真に沿う」ことは、既存の言葉やジャンルの輪郭と一致せぬ事も度々に違いない。赤瀬川さんの表現手段の変遷や、千円札裁判などはそこから生じた事の様に思える。逆に、赤瀬川さんを物差しに既存のジャンルの輪郭を変えてみたら、色んな人が楽になる様な気がする。

―「沿うと云う事」

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